○×つけても白黒つけるな

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これは受験生に向けたメッセージであり、よくある精神論的な話なので、あまり耳を傾けてもらえないかもしれませんし、こうした一般論に同意しない人もいるかもしれませんが、あえて文章に起こしてみたいと思います。

タイトルの意味するところ、すなわち、この文章でイイタイコトは、受験というものは数字で合格・不合格が残酷なまでにくっきりと判定されますが、それまでもが人生の「合格」「不合格」、わかりやすく換言すれば「勝ち組」「負け組み」を決める要因にはなりえないということであり、ほかにもっと大切なことがあるということです。

よく巷で耳にする手垢にまみれたきれいごとです。私も高校生くらいのころまでは、まったく信用していませんでした。いや、恥ずかしいことに、未だに人は数字で評価できる、と心の奥底で思っているかもしれません。恐ろしいことです。そんな汚い考え方を払拭すべく、自戒を込めて書く次第です。

受験生のみなさんは偏差値という物差しで、学力が評価されます。これに異論はないでしょう。正答を得た数だけに価値があるシビアな世界です。私も受験生時代、こうした現実に嫌気がさし、気が狂いそうになりました。しかし、よく考えてみてほしいのですが、この偏差値という指標は、個人の持つあらゆる特性のうち、ほんの一面しか見れていないのではないでしょうか。それゆえ、テストの成績がよかったからといって尊大になったり、逆に自分が思うような点数が取れなかったからといって悲観することは、くだらないことなのではないでしょうか。

もちろん、こんな声が聞こえてくるのも承知しています。「でもよー。少子化時代といっても、学歴って重要じゃん?今不況で就職難で、○○大生も内定が取れない!とか叫ばれてるけど、そもそもその○○大に入れなかったら、面接にすらたどりつけないわけでしょ?うちの兄貴そうぼやいていたよ。ってことはやっぱり、今の世の中学歴社会ではあることに変わりはないよね?」と。

おっしゃる通りです。矛盾するようですが、学歴は重要です。その証拠に、大変不遜なことを自覚して申しますと、私は有名大学に通っていた経験から、学歴の重要性を就職活動で痛感いたしました。一番わかりやすい例として、就活生なら御馴染みの大企業のリクルーターの方と何人もお会いすることができたことがあげられます。あえて企業名は挙げませんが、その中には時価総額で日本トップに立つ企業、あるいは、かつての国営企業がありました。リーマンショック後の不況が覚めやらぬ超就職難の中、私はほかの大学生より相当有利な条件で就職活動できたのです。結果、いくつか大企業の内定をいただいた私は、客観的に就職活動において成功した部類に入ると思われます。(※念のためですが、自慢しているわけではありません。)

しかし、しかしです。巷の言葉を借りれば、シュウカツで「成功」したという事実は人生の成功モデルと呼べるのでしょうか?シュウカツなんてやめて「起業せよ」と極論まで言わないまでも、大企業から内定を得る=勝ち組ということには、個人的に大きな疑問符がつきます。私は何の才能もなければ、高い志があって就職活動をしたわけではありません。日本というぬるま湯につかっている普通の大学生の思考にありがちな、安定した大企業に入りたいという欲望のもと、リクナビに個人情報を登録し、高いリクルートスーツを買い、安くはないスマホを購入したわけです。自分をかっこよく見せる写真屋なんかにもお金を出しました。馬鹿みたいですよね。

ご存知の通り、日本の経済成長率は下がる一途、かつての成長産業といわれた会社は存亡の危機に立たされています。それは電機業界を中心に起こっていますが、日本企業全般に言えることでしょう。ざっくりとした言い方ですが、新しいビジネスモデルを構築できないのが根本的な要因です。そして、リーマンショック以前は想像できなかった円高も大きな一因となり、海外の企業に駆逐される日本企業は今後ますます増えてくるに違いありません。そんな地獄絵図の中、ありきたりな言い方ですが、今日は大丈夫といわれている大企業が10年後にも大丈夫と言える保証がどこにあるのでしょうか。ちょっと前では「先輩が東電に内定した!すごい!」といった会話を日本の大学生は普通にしていました。でも、今では皮肉にしか聞こえないフレーズに様変わりしてしまいました。

長くなりましたが、上の段落で述べたことを受験生の身に置き換えて考えてみたいと思います。偏差値を求めること、そしてその先にある大企業の入社を夢見ることに、どんな問題があるのでしょうか。私が思うに、多くの学生は(私も含め)、結局のところ、誰かと比較して相対的に有利なところに行くという思考が頭にあり、自ら目標設定する姿勢がないということ、ここに問題があるのです。これにつきます。他者目線から逃れならないのです。

何も難しい話をしているわけではありません。人と比べてどうこうではなく、自分はこれをやる!と目標を定めてそれにひたすら邁進する。ただ、それだけのことです。でも、これがなかなかできない。

思い返せば、受験生のとき、成績が良いときには、東大なり医学部を目指す雲の上のような生徒に目がいって劣等感に苛まれたり、一方で成績が悪ければ、自分より成績が劣る人に目を向けて、優越感を保とうとしていました。かつて、私が受験生のときに心の平安を保つために行っていた非常に残念な精神作用のひとつです。

繰り返しますが、他者との比較なんて意味がないのです。自戒を込めて何度でも書きます。比較して、比較して、比較して・・・。キリがありません。そういうことからも、きれいごとではなく、他者と比較して幸せを感じるのには限界があります。

ひとつ例をあげてみましょう。仮に東大や医学部を目指しているある生徒は、もしかしたら、受験生になる前に将棋棋士を目指していたが、中途で挫折した経験をもっているかもしれません。そうした過去もあり、受験界では神童と言われても、プロ棋士と比較して劣等感を持っているかもしれません。ちなみに、プロ棋士になることの難しさを考えれば、失礼ですが、東大ですら、普通の人の域に入ります。実際、東大からプロ棋士になった方もいますが、後ほど述べるAクラスの下の下の下にとどまって、大変厳しい状況にあります。それは彼が駄目だということではなく、それだけプロ棋士の世界が凄まじいということなのです。

話は続きます。天才の中の天才がなれる職業、それがプロ棋士です。プロ棋士の世界には段位とは別にプロ野球で言うところの一軍二軍みたいなものがあり、たとえていうなら一軍から五軍あります。九段も四段も関係なく、この中にごちゃまぜになって争っています。その一軍にあたるのがA級クラスというもので、百数名いるプロ棋士の中のたった10人しかこのA級にはなれません。その天才の中の天才の中の天才に選ばれた人たちが争い、その頂点になった人が名人位という将棋界最高峰のタイトルの"挑戦権"を得て、そこで現名人位を持つ人を打ち下した棋士が、名人位の称号を手にするのです。書いているだけで、気が遠くなる世界ですが、かの有名な羽生さんはその名人位を7回もとられており、永世名人という偉大な称号を持っています。ちなみに、この高度情報社会にあって、超高速のスーパーコンピューターを持ってしても、羽生さんにはかないません。恐ろしいですね。

さて、話が大きくなりましたが、では、小さいころから将棋をやっていた羽生さんはそんな偉大な業績を目指して将棋を指そうと思ったのでしょうか。もちろん違います。羽生さんはいまでも言います。「将棋は何年やっても勝ち方が全然わからない。だからこそ、面白い」と。将棋が好きで、将棋を一生やりたい、その一心でプロになったのです。自分でこれをやる!と目標を定めてつき進んだ結果がいまの羽生さんなのです。

羽生さんみたいになれとはいいません。自分でやりたことを決め、そのためには大学受験をする必要があり、○○大学に行くと自分で考えるということが大切なのです。もちろん、日本という国に生まれ教育を受け、家庭環境もひとそれぞれである以上、完全無欠で純粋無垢な独自の考え方なんてできないでしょう。そもそも、大学受験を目指すこと自体、誰かの入れ知恵によるものです。それでも、できるだけ、様々な俗欲が飛び交う頭の中で、自分の考えというものを掘りおこし、他者とは関係のない自分なりの目標を決めて、それに向けての努力をし、数字で人と比較するのではなく、自分の決めた目標値と現在値との差分を冷静に見つめて、さらに新たな課題設定をし、それに向かってまた努力をする。そういうプロセスをすることに価値があるのです。

こういったことを蔑ろにして、仮に有名大学にうかっても、人生を無駄に生きるだけになります。

自分で考えた目標を見つめて、あせらず、淡々と前に進むのです。それが大事なのです。

かつての自分のように(今でもかもしれませんが)、他者と比較して、おろおろし、目標を見失い、貴重な時間という資源を浪費する、といったことがないように、とこの文章を読んだ方に強く訴えたいと思います。


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